料理ユニット「アンドシノワーズ」で旧仏領インドシナ三国(ラオス・カンボジア・ベトナム)の食文化を広めている田中あずささん。毎日キッチンに立ち、料理をしながらいろいろなことを考えるのが密かな楽しみなのだそう。その時間を『脳内よそ見』と名付けている田中さん。日々の料理に疲れたとき、息抜きしたいときにぴったりの、肩の力がふっと抜ける『脳内よそ見』のヒントをお届けします。
こんにちは。
コロナウイルスの影響で、体調の不安はもちろん、仕事や旅行、日々の外出の予定などがキャンセルになり、残念な思いをされている方も多いと思います。
私も、料理人という仕事柄、世の中の外出自粛ムードは寂しいばかりですが、せめてこの場を通じ、みなさまに楽しいコラムをお届けできればと思う次第。
今回は手放しな気分ではおでかけできないうさ晴らし(?)の気持ちを込めて、ベトナムでよくよく通っていたビアレストランの話を書きますね。今はもうないけれど大好きだった場所は、ホーチミン、かつてサイゴンと呼ばれた美しい街の、とある通り沿いにありました。
この店はベトナムの代表的なビールメーカー「SABECO」の直営店で、どの店よりも美味しいビア・サイゴンが飲める場所。名前はベトナムではよくある、通りと番地を記しただけのものではっきりとした屋号はなかったけれど、ビールの樽を水槽から上げ下げする鎖のついた滑車が印象的だったので、私たちは「クレーン」と呼んでいました。
店は朝8時から開店。ほぼ毎朝通っていたので、着席すると何も言わなくても、サイゴンビール(赤)と洗面器に入ったかちわり氷、柔らかく茹でた落花生が出てきました。
開け放った窓から、プラタナスの街路樹がきれいに見えるフロア真ん中あたりの席に座れたらラッキー。朝いちばんのベストタイムは地元の先客も多く、特に週末は、テーブルの下に何本も空のビール瓶が並ぶ様子が清々しかった。
今から数年前のある日、ひとりでベトナムを訪れていた主人から日本にメッセージがあり「クレーンがなくなった」ことを知りました。
「すっかりなくなってた」「そうかー」「サイゴンで行くとこなくなったわー(笑)」。などと、なかば茶化したような雰囲気の会話が交わされたとは思うけれど、特にふたりで残念がることもなく私たちのクレーンは幕を閉じました。
あそこがなくなった残念さを真に受けていたら、サイゴンにも、ベトナムという国にも愛着がなくなってしまいそうで怖かったし、さらに私個人の気持ちで言えば、なくなってしまった場所の話を持ち出すことで、ことサイゴンの古い街並みが大好きな主人が悲しい思いをするのを避けたかった。
そして私たちは一緒に何度となくベトナムを訪れていたのに、ちょうど、このバーがなくなった時から、ベトナムへ行く機会がほとんどなくなってしまったのです。
少し前に人気になったドラマでも、レストラン評価の大きな軸になっていた「ミシュランガイド」。このガイドの評価基準を改めて転載すると以下だそうです。
一つ星 ★ そのカテゴリーで特に美味しい料理
二つ星 ★★ 遠回りしてでも訪れる価値がある素晴らしい料理
三つ星 ★★★ そのために旅行する価値がある卓越した料理
上記の基準にあてはめると、ここのビアバーはまぎれもなく、私たちにとっての「三つ星」でした。私たちは脚色なく、ここへ行くために飛行機に乗り、旅をしていたと言っていいし、好きな店が都市開発の影響で次々と暖簾を下ろす中、「この店は、私たちの最後の砦だね」と、主人とも毎日のように話していたものです。
(これはいろんな媒体で書いていることで恐縮ですが)「街(特にかつて発展途上国と言われた国々)の都市開発は、地元の人たちの経済にとって必要なもので、たまに旅行にくる外国人がノスタルジーでとやかく言うことではない」という声をたまに聞くことがありますが、私たちにとってインドシナはもう、ただの外国ではない。
この国々の文化背景が染み込み、時間がたってにじみ出てくるような雰囲気が醸されたレストランやバーに、私たちは多くの意匠や料理、ライフスタイルを学び、今やそれを日本で紹介する仕事をしているのですから、せめて私たちにはこの街の止まらない画一開発と景観の破壊について、とやかく言わせてほしいものです。
「後悔しても知らないよっ!!」と。
クレーンのことを思い出すとつい感傷的になってしまいますが(笑)、みなさんにも「わざわざ旅行してまで行きたい店」がひとつでもあったとしたら、それはとても素晴らしい「人生の財産」だと思うのです。
もちろん海外でなくてもいいし、何なら近所の行きつけでもいい。グルメガイドに載っていてもいなくてもいい。ただ自分が「遠く離れたとしても、ここは折をみて訪れたい」と思える「三つ星」な場所。
残念ながらサイゴンの「クレーン」はもう記憶の中だけの存在になってしまいましたが、家にこもりがちにならざるを得ない今、安心してお出かけできる日が早く訪れることを願って、今回は私のとっておき三つ星レストランの思い出をひっぱりだしてみました。
料理家、コピーライター。
仏印料理教室『アンドシノワーズ』主宰。2006年頃からインドシナ(ラオス・ベトナム・カンボジア3国)の古典料理を研究・紹介。