料理ユニット「アンドシノワーズ」で旧仏領インドシナ三国(ラオス・カンボジア・ベトナム)の食文化を広めている田中あずささん。毎日キッチンに立ち、料理をしながらいろいろなことを考えるのが密かな楽しみなのだそう。その時間を『脳内よそ見』と名付けている田中さん。今回は、新型コロナウイルスの影響で変わっていく食文化について考えます。
こんにちは。
ここ2ヶ月ほどの新型コロナウイルス感染症による外出自粛生活は、少なくとも私にとって、それ以前と以後の暮らし方をはっきり分けるほどの大きな出来事になりました。5月にラオス入りするつもりでいた頃がすでに懐かしい……。
東南アジア諸国のコロナ事情では、今回、ベトナムのステイホームの徹底ぶりと、いちはやいロックダウン解除が印象的でした。政府の発表によると、約9,500万人の人口に対して感染者数328、死亡者0(5月末時点、※1)という数字も驚きの少なさです。
また、となりのラオスは人口約700万人に対して感染確認者数19、死亡者0(5月末時点、※2)。かなりざっくりではありますが、いずれも100万人のうち3人くらいの罹患率かつ誰も亡くなっていない、ということになります。
ベトナムはホーチミン市、ハノイ市への人口密集が国としての問題になるほど深刻だし、衛生観念も比較的おおらかな中、なぜこの数字を抑えることができたのか本当に不思議。
一方ラオスはどうしてか。私お得意の妄想レベルではありますが、原因を推測してみました。
・(東南アジア諸国の中で)人口密度が圧倒的に低く、家屋は年を通じて半オープンエア。密になりようがない
・国土の8割が山。外で働く農家の割合が圧倒的に多く、民族的に体力がある
・都市部のサラリーマンも基本的に仕事が終わればとっとと家へ帰る。つまりもともとのライフスタイルがステイホーム主義
・1日1キロの米食と野菜中心の食生活のおかげで腸内常在菌(プリポテラ菌)が多い
……など、考えてみましたが、本当のところはやはりよくわかりません。あながち間違っているとも思えないけれど。
ただ、現地の友人たちの様子を見ていると、密にならない環境の中でも日本と同じようにソーシャルディスタンスを保ったり、こまめな手洗いや消毒、マスクの着用などは今でも徹底されているようで、古典的な市場でも手袋を着用する様子が当たり前になりつつあるようです。
ベトナムもラオスも気質が真面目で素直な民族だから、そうした対策が言われなくても市井の習慣になるのは理解できます。また、ラオスの古典的な食のスタイルである「手食」も、公共の飲食店では控える動きが主流になっているのだとか。
ラオスでは古典的な食卓であるほど手食が正式な食べ方で、「もち米を掴む」「おかずにほどよい量をくっつける」「こぼさないように口へ運ぶ」という一連の所作がマナーになります。
また、日本のように料理をひとりひとりのお皿に分けることはなく、食事は「シェアして食べる」ことも決まり。ひとつのお皿に二人が手を付けるのはNGで、かぶった場合は基本的に敬うべき目上の方か、まだマナーを勉強中の子どもを優先させ、いったん手を引きます。
おいしそうなおかずが並んだテーブルでこれらの動きをスマートにこなすのはなかなか練習が必要で、年配の方が自分の食べられるぶんだけの米を掌に持ちながらそれを迷いなくおかずにさっとすべらせる様子は、いつ見ても神々しさすら感じる年季があるものです。
話はそれますが、ラオスは淡水の魚や生の鴨血を和え物にして食べる文化があるけれど、最近は衛生的な視点から、特に妊婦や子どもは「火を通して食べる」ことが推奨されています。
(過去に食べたことがなくはないけど)淡水魚を生で食べるのは寄生虫が怖いから私も遠慮したいのですが、食衛生の知識が世界のスタンダードになる一方で、彼らの古典的な食文化はこうして少しずつ消えるんだな、と漠然と思ったことがありました。
今回のコロナウイルスは、彼らの「手食文化」に少なからず影響を与えました。ラオスの罹患率を見る限りでは、手食が原因でコロナウイルスに感染した人はほぼいないと言っていいような気もするし、この騒動が世界的に落ち着いたら、何もなかったように彼らも私ももち米を手づかみし、みんなで一緒のおかずにつけながらおいしく食べていることを願うけれど、特に若い世代には「もう手食やめた」と思っている人もきっといるはず。
例えばもち米を箸で食べるのは、おにぎりを箸で食べるのと同じような違和感があるし、手袋をつけて食事をするのも興醒めというか、まるでミスタービーンの風刺的なコメディのようにも見えます。でも、そうした食卓が当たり前になることが、あながち冗談に思えないほどのインパクトの中に私たちはいるのかもしれません。
料理家、コピーライター。
仏印料理教室『アンドシノワーズ』主宰。2006年頃からインドシナ(ラオス・ベトナム・カンボジア3国)の古典料理を研究・紹介。