作家・生活史研究家。食や食らし領域が専門。
約30年続いた平成は、2019年の4月に終わりを迎えます。平成にあったさまざまな食のブームや事件を、昔懐かしいものから直近のものまで、作家・生活史研究家の阿古真理さん独自の視点で語っていただきます。
私が初めて沖縄料理と出合ったのは1991年3月。湾岸戦争の勃発でヨーロッパへの大学卒業旅行を断念し、代わりに石垣島へ行ったときのことである。印象深いのは、ピーナツ粉を使い、ねっとりした食感と甘さが特徴のジーマミー豆腐、シコシコした麺の食感とスープが味わい深いソーキそば。それから、ガイドブックに載っていた牛タン店の牛の血を使ったスープだった。
「沖縄料理は、珍しくておいしい!」と感動した私は、2年後、今度は沖縄本島へ旅行した。国際通り沿いの店で食べたソーキそばは、石垣島で食べたものと違って雑なつくりの味がしたが、牧志公設市場で注文した色鮮やかな魚の料理は、どれもとてもおいしかった。
どちらの旅行でも食べなかったのが、ゴーヤーチャンプルーだった。私の出身である関西では、ニガウリ(ゴーヤー)は珍しくなかったが、とにかく苦いイメージが強く、手を出すことをためらったのである。
しかし、東京に移り住んだ2000年代初頭に沖縄へ行ったおり、現地で「苦いゴーヤーもあるけど、そうでもないのもあるよ」とすすめられてゴーヤーチャンプルーに挑戦。すると、苦みはアクセント程度で、島豆腐や卵などとのコンビネーションが気に入り、家でももどき料理みたいなゴーヤーチャンプルーをつくって食べるようになった。
もともとゴーヤーになじみがなかった東京で、私がゴーヤーチャンプルーをつくれたのは、沖縄ブームが到来してゴーヤーを手に入れやすくなったおかげである。
私が沖縄へ行き始めた1990年代、「沖縄=基地の町、罪悪感なくては関われない場所」もしくは、バブル期に旅行社のキャンペーンなどで生まれた「ビーチリゾート」というイメージしかなかった。
しかし、1999年に映画『ナビィの恋』がヒットし、2001年の朝ドラ『ちゅらさん』が大ヒットしたことで、流れが大きく変わった。2000年には九州・沖縄サミットが沖縄本島で開かれ、2000円札が発行されている。沖縄は、注目の土地となったのである。
『ちゅらさん』がよかったのは、基地も戦争もリゾートも登場しないことである。「大丈夫だよ」といった意味を表す沖縄言葉の「なんくるないさ」を連発するおばあ(平良とみ)。ことあるごとに三線を弾き、仕事はサボってばかりの父(堺正章)など、脇を固める個性豊かな登場人物たち。沖縄にもふつうの暮らしがあり、それはしかし「本土」とは異なる文化の色合いがあり、いたわり合う優しい人たちがいる。そういうイメージが広まって一気に親しみやすくなった。そして、メディアで盛んに紹介された沖縄の食文化や食材は、長寿の秘訣だと謳われていた。
東京のわが家の近くのスーパーで、「レイシ」という鹿児島の呼び方でひっそり売られていたニガウリが、「ゴーヤー」の名前で、夏場の定番野菜として山積みされるようになったのは、このドラマでゴーヤーチャンプルーとゴーヤーが脚光を浴びたからだろう。ドラマで主人公の兄・恵尚(ガレッジセール・ゴリ)が売り出そうともくろむキャラクター人形、ゴーヤーマンは、商売として大失敗。しかし、現実の世界で売られたゴーヤーマングッズは飛ぶように売れ、品切れが続出して、週刊誌にも取り上げられた。
今や東京をはじめ、各地に沖縄料理の店はあり、私たちは気軽にゴーヤーチャンプルーやソーキそばを楽しむことができる。テレビ番組の影響で、ツナ缶を常備すること、ソーメンもソーメンチャンプルーとして炒め物に使うこと、ケンタッキーフライドチキンがハレの日の食事として楽しまれることなど、観光用以外の沖縄の情報も増えた。
暮らしを知ること、食文化に接することの力は大きい。誰でも何かを食べ日常を送るからだ。その当たり前を発見することは、異なる背景を持つ人も仲間と認め、距離を縮める第一歩となるのである。