作家・生活史研究家。食や食らし領域が専門。
約30年続いた平成は、4月30日に終わりを迎えました。「令和」になった今こそ、平成にあったさまざまな食のブームや事件を振り返ってみるのはいかがでしょうか。昔懐かしいものから直近のものまで、作家・生活史研究家の阿古真理さん独自の視点で語っていただきます。
1993(平成5)年10月10日22時。私は職場の仲間たちとホテルの一室にいた。1990年代前半の会社員時代、社員旅行で仲良くなった若手独身男女の仲間たちと、よくキャンプなどで遊びに行ったのだ。このときなぜホテルにいたのか、どの町にいたのかさっぱり覚えていないけれど、みんなで固唾を飲んでテレビに見入った記憶は鮮明に残っている。その番組とは、『料理の鉄人』(フジテレビ系)初回である。
「これはすごい!」「こんな番組、見たことない」。皆で感動を分かち合ったのは、それがまったく新しいジャンルを切り開く料理番組だったからである。
黒を基調としたスタジオの真ん中に大きな厨房をしつらえ、一流の料理人同士が対決する。中華、フレンチ、和食とそれぞれの達人が、テレビゲームの登場人物よろしく「鉄人」を名乗って、派手な蛍光色の緑や黄の衣装をまとう。目にも鮮やかな包丁さばき、鍋さばき。一つの食材を使って、制限時間いっぱいにさまざまな料理をつくり上げる手際のよさ。スポーツの試合のような実況中継。「美食アカデミー」主宰という役割で仕切る鹿賀丈史が、「私の記憶が確かならば……」と大仰に解説する。
そんな要素のすべてが、手順をていねいに伝える実用的な料理番組とも、芸能人が名物料理に舌鼓を打つグルメレポートとも違っていて、新しかった。
その後、料理による対決はバラエティ番組の定石となり、『料理の鉄人』の演出家が手掛けた、料理下手な芸能人が食材と格闘する『愛のエプロン』(テレビ朝日系)や、食材を中心にした『どっちの料理ショー』(日本テレビ系)などに引き継がれた。1996(平成8)年から2016(平成28)年まで放送された人気番組『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)の料理コーナー「BISTRO SMAP」も、形としては対決している。
番組はその後、アメリカなど海外にも輸出され、類似番組が生まれた。日本で始まった料理対決バラエティは、世界のテレビ番組の一ジャンルにまで発展したのである。
この番組を通して有名になった料理人・シェフは多い。鉄人に任命された、和食の道場六三郎、フレンチの石鍋裕、坂井宏行、中華の陳建一。初めてお菓子で鉄人に勝利したパティシエの辻口博啓は、スイーツブームの立役者になった。料理研究家として初登場し、やはり鉄人に勝利した小林カツ代も、男性を含め幅広くその名を知られる希少な料理研究家となった。この番組が、有名になる登竜門としての役割を果たしたのである。
何より、今まで人目につかない厨房で低い地位に甘んじていた料理人たちが、番組を通して、その技術や生きざまを知られ尊敬を集めるようになったことは大きい。その後も料理人に脚光を当てるテレビ番組は続々と誕生し、芸能人並みに有名な人も多くなった。
脚光を浴びることが、料理人たちの意識を変えたのだろうか。最近は、東京で活躍する地方出身の料理人が出身地の食材を使う、あるいはIターンやUターンで産地に店を開き地元の食材を生かした料理をするなど、食を通じて社会貢献しようとする人が目立つ。
また、異種格闘技をイメージしたという『料理の鉄人』では、フレンチ対和食など、ジャンルが異なる料理人同士の対決も見どころの一つだった。フォアグラのポン酢和え、「フォアグラの肝ポン」を考案した道場六三郎などが、ジャンル外の食材を扱う柔軟な発想を呼び込んだことも、料理の進化に役立っただろう。今は和食の料理人が塊の牛肉を使う、フレンチやイタリアンの料理人が山芋など和の食材を使う試みも珍しくなくなっている。
消費者の側も大きく変わった。昭和の時代、食べることばかりに関心を持つのは恥ずかしいことだった。しかし、『料理の鉄人』は、料理すること、食べることをエンターテインメントとして楽しむ文化を育て、グルメブームをさらに押し広げた。2000年代以降のテレビは一日中、どこかの局で食を紹介し、誰かが「おいしい!」と叫んでいる。テレビドラマでもレストランなど飲食業が舞台の物語や、食にフィーチャーしたものが増えた。
2007年にはミシュラン・ガイドも上陸。グルメ大国になった日本には、食を目当てに訪れる外国人観光客も多い。私たちの食に対する意識を大きく変え、新しい文化を育てるきっかけをくれた一つが、『料理の鉄人』だったのである。