作家・生活史研究家。食や食らし領域が専門。
約30年続いた平成は、4月30日に終わりを迎えました。「令和」になった今こそ、平成にあったさまざまな食のブームや事件を振り返ってみるのはいかがでしょうか。昔懐かしいものから直近のものまで、作家・生活史研究家の阿古真理さん独自の視点で語っていただきます。
1988年に『週刊モーニング』(講談社)で始まった人気マンガ、『夏子の酒』(尾瀬あきら)を私が読んだのはだいぶ後で、2000年頃のことだった。先に、私と同世代の主人公、夏子の祖母を描いた続編『奈津の蔵』を『週刊モーニング』で連載中に読んでいて、仲間たちから「あれは読んどかなあかんで」と聞かされていたのが、『夏子の酒』だった。いつか読もうと思っていたから、神保町の古本屋で出合うと大人買いし、喫茶店で読み始めると、あっという間に引き込まれた。
一緒にいた夫から、「もう帰ろうよ」と言われハッとして地下鉄に乗ったが、車内で続きを読み、結局1日で文庫本12巻分を読了してしまった。
同書で酒蔵に興味を持った私は酒造りに関する本を読み漁り、酒蔵を回る取材も企画した。しかし、日本酒は好きだけどアルコールに弱い、という致命的な欠陥を持つ私は、蔵で働く人たちに心を開いてもらうことは難しい。結局その世界に深入りすることは断念した。
さて、『夏子の酒』は、東京の会社でコピーライター修業をしていた夏子が、兄の早逝を受け、村に帰って酒造りに奮闘する物語だ。
兄は死の直前、幻の在来米「龍錦」を新潟の農業試験場から見つけて持ち帰っていた。昔は地元で育てていたそのコメをふやして酒を仕込むことが、兄の夢だった。その夢を実現させるために夏子は蔵に戻ったのだ。
龍錦が村から消えたのは、粒が大きいので倒れやすく、栽培が困難だったからだった。農薬や化学肥料も使えない。当然、地元農家に打診しても栽培を渋る。ヘリコプターで田んぼに農薬を撒く空散も辞めさせなければならない。そんなことを求めれば、通常の慣行農法で収量を確保し生活してきた他の農家も巻き込むことになってしまう。
最初の年、夏子は一人で田んぼを借り龍錦を育てる。草取りに励み、台風が襲ってきたとき、雨風の中見回りに飛び出して熱を出す。村の人たちは、蔵のお嬢さんがコメの有機栽培を始めた様子を、陰で観ている。噂を聞いたのだろう。独りで有機農業に取り組む「変わり者」も訪ねてくる。「有機農業は一番新しい21世紀の農業だ!やがて世界を席巻する」と断言するその男や仲間を得て、龍錦の栽培が広がっていく。日本酒造りのマンガの前半はたっぷり、戦後のコメづくりと農村のあり方を問う話なのである。
日本で有機農業が注目され始めたのは、機械を導入し、農薬と化学肥料を使う慣行農法が定着した1960年代である。現場では農薬で体を壊す農家が出始めていた。昔ながらの農法を追放したことに疑問を抱く農家もいた。そんな1964(昭和39)年、アメリカで出版された生物学者、レイチェル・カーソンが農薬問題を告発した『沈黙の春』が翻訳された。
当時は高度経済成長のまっただなか。都市にはビルが次々と建ち、農業も近代化が進む。急速な変化のツケが出始めていた頃だった。水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病などの公害病が明らかになる。大気汚染や水質汚染の問題がクローズアップされていく。
1974年、朝日新聞で始まった連載小説『複合汚染』(有吉佐和子)が、翌年単行本として出版され、ベストセラーとなる。それは農薬や公害が合わさった複合汚染の問題を告発していた。
二つのベストセラーのおかげで、有機農業に取り組む農家は少しずつふえていった。食べ物の安全性を気にする消費者も出てきた。農家を支援し安全な食べものを手にしたい主婦と農家がつながり、有機栽培は少しずつ広がっていく。学生運動から農業に転じた人たちが、両者をつなぐ組織、大地を守る会が設立されたのは、1975年である。各地の生協も、より安全な食べ物の宅配に力を入れた。
1980年代後半になると、チェルノブイリ原発事故や、酸性雨など世界的な環境汚染の問題が持ち上がり、都市の人々の環境保護や有機農業への関心が高まっていく。そんな頃、『夏子の酒』の連載は始まった。酒造りや農業に携わる人たちも、酒好き、マンガ好きもこの作品を読んだ。そうして昭和の時代には、一部の人たちによる社会運動的な存在だった有機農業は、次第に支持のすそ野が広がっていくのである。