作家・生活史研究家。食や食らし領域が専門。
約30年続いた平成は、4月30日に終わりを迎えました。「令和」になった今こそ、平成にあったさまざまな食のブームや事件を振り返ってみるのはいかがでしょうか。昔懐かしいものから直近のものまで、作家・生活史研究家の阿古真理さん独自の視点で語っていただきます。
『dancyu』(プレジデント社)の2018年9月号カレー特集のタイトルは「スパイスカレー 新・国民食宣言」。それは、大阪で生まれたスパイスカレーが、全国に広がっていることを伝える内容だった。私も『パクチーとアジア飯』(中央公論新社)の執筆に際して、大阪で何回か食べたとき、「これは新しい日本のスタンダードになるかもしれない」と感じていた。
そんな画期的なスパイスカレーとは何か。カレーはそもそもスパイシーなものではないのか。どこルーツなのか。食べたことがない人にとっては、謎だらけかもしれない。
スパイスカレーは、日本で生まれた新しいタイプのカレーで、店によって異なる独自のスパイスの扱い方に特徴がある。私が食べたものはどれも、複雑な味わいがありつつ、あっさりしていた。それは、どろりとしたふつうのカレーライスのような、小麦粉のルウが入っていないからだろう。『関西のスパイスカレーのつくりかた』(eoグルメ編集部、LLCインセクツ)にも、小麦粉が入ったレシピは皆無だ。それから、インドカレーとは違い、基本的にご飯を合わせる。
同書を観ると、和の要素が入っているカレーは多い。梅干し、カツオ出汁、鯛のアラ、ゴボウ、酒かすなどが使われている。中華との融合もある。「梵平」という店が考案した「白身魚とほうれん草の四川風スパイスカレー」は、一味唐辛子と花椒を加える。それは明治時代に入ってきた西洋料理が、ご飯に合う洋食に進化したことに似ていて、日本人が安心するスパイシーさを持った「和食カレー」なのである。
スパイスカレーは、1992年に大阪・ミナミにカレー屋「カシミール」ができたことで、産声を上げた。世紀の変わり目頃からほかの店ができ始め、2008年に関西のグルメ情報誌『あまから手帖』(クリエテ関西)8月号に、その後『dancyu』が2011年8月号など数回紹介した後、2010年代後半になってブームになった。
今は北浜に移転した「カシミール」をはじめ、ミュージシャンが始めた店が多いこと、休業時間に間借りし、サイドビジネスとして開業する店主が多いなど、店の成り立ちにも特徴がある。そのせいか、どことなく文化の香りがする。
「間借りカレー」は最近ちょっとした流行りで、東京でも存在する。開業資金が少なくて済むし、本業とは別に店を持つやり方はリスクが少ない。厳しい時代だからこそ、好きなことを追求して自分らしく生きたい人もいるだろう。そういう新しい働き方が、主要な大企業が東京に本社を移してしまい、不況が深刻な大阪で始まった点が示唆的だ。スパイスカレーは、平成の経済構造の問題を体現するとともに、それでも生きる人間のたくましさを感じさせる。
流行するのは、時代に合っていたからだろう。スパイスの味に慣れ、昭和のカレーライスでは刺激が足りないと思う人たちの好みに合う。小麦粉のルウは重たい、と思う感性にもちょうどいい。私たちがよく知るカレーライスは昭和の初めに流行し、昭和が終わる頃にはなつかしい「おふくろの味」になっていた。その意味で、「昭和カレー」とも呼べる。対して、平成の初めに生まれ、平成の終わりに全国に広まったスパイスカレーは、「平成カレー」ではないか。
なぜ大阪で誕生したか、という点についてくわしくは『パクチーとアジア飯』で書いたので、ここであまり深堀りはしない。一つだけ関西出身者としてあげたい理由は、大阪人はオリジナリティを発揮することが好き、という点だ。
冗談が好きで、面白くなるなら虚実入り混じった話も平気な大阪人。何かがすばらしいと説明するのに「俺の中では一番やねん」と言うことがある。スパイスカレーも、正統派インドカレーやスリランカカレーなどとは違う、独自のつくり方をしている。
店主たちが、「俺の中では一番おいしい」味を追求した趣味のようなライフワークのような、あるいは生き方そのもののようなカレーが、スパイスカレーだったのではないか。本物でも正統でもなくていい。それより、自分が考案したオリジナルで最高においしいものを提供して、人が喜ぶ顔が見たい。そういう気持ちの集合体が生んだカレーが、全国に広がろうとしている。
新しい文化は、異文化と接触したとき、それから逆境に置かれたときに生まれる。両方の要素を持つスパイスカレーはきっと、人に厳しかった平成の時代が生み出した、新しい食文化なのである。